日
02
27
2005
本日、D企画のリハーサル後知り合いのバレエスタジオの発表会を観に行く。発表会を観に行くときは観客モードよりも先生モードで行くことが多い。(気持ち的には参考に観に行くという形なので、主催者側からしたら本当に迷惑な客である)
踊りのうまい下手ということよりも、どこに向かって躍っているのかということがすごく気になる。だって、そのためのテクニックだし、表現を成立させるためのダンスなのだから。
バレエ風というのがなんだか目について「う〜ん」と思ってしまった。すべてが「こんな感じ」でおどっているように見えて仕方がなかった。テクニックを何をつかっているかなんて、まあどうでもいい。でも向かう先の見えないテクニックは本当に使えないと私は思っている。やはり「〜風」ではだめなのではないか?本人が「何がしたくてこの踊りをおどっている」ということが見えてこない。
これは、子どもとか大人とかに限ったことではない。
一人だけ、小さいながらしっかり「オーロラ姫のバリエーション」を躍った子がいた。3年生〜6年生ぐらいだと思う。難しい踊りだし、テクニック的には踊れているとは言いがたいが、自分がどういう風に躍りたいのかということが、はっきり観てとれる。やはりこれがないとだめなのではないか??う〜ん最後はやはり本人の感性か…。躍れる子にしようと思ったら、感性を鍛えるのが一番手っ取り早い。(テクニックはやってくれればいいだけなので、実はどうとでもなる)でも、これが難しい。教えられるものでもない。いかに子どもたちとふれあい、感じ取ってもらうか…。
本人に接する、まわりの人間の質が問われるよな…と、ため息交じりに帰宅したのでした。
TITLE: 技法
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私が関わっている、一般の方向けの絵画教室でも同じようなことがあります。
「プロになるわけじゃないのだから」が皆さんの口癖なのですが、なんとなく“それ風”になった気分を味わいたい、からとにかく“小技”を教えてほしいと言われることがよくあります。「自分でどうしたい、ということなんてわからない」から、その場その時で具体的に何をすればいいのか教えてくれれば、とりあえず学んだ充実感が味わえる、ということなのですよね。
真似をしてみることは必ずしも悪いことばかりではないのですが、表面的に真似るだけでは、その人ならではの作品を模索しながら磨いていく本来の方向性からはかけ離れていきますよね。
市井の教室では、そういう小技をいっぱい教えてくれる先生が良い先生だという空気もあるので困惑してます。
TITLE: どういう風にしたいのか?
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わたしは小さい頃からピアノを弾いていたのですが、「どういう風に弾きたいの?」というのがわからないまま弾き続けてきました。でも、そこそこ誉められてしまうのがとても不愉快・・・というかなんかいやぁな気分だったことを思い出しました。なんかずるしてるみたいで気分悪かったんですよね。
練習しながら「なんかこうじゃない」と思い続けていたので、なんらかのイメージがあったのでしょうか・・・。それ以来、芸術には少し身構えてしまいます。
TITLE: うんうん
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「どうしたい」て、自分のことをわかってないとでてこない言葉なんですよね。考える前に「ああしなければ、こうしなければ」が先にくるとそんなことが考えられなくなっちゃう。それが問題なんだと私は思っているんですよ。「これはこういうものなの」という思い込みはアートには本当はいらないものなんじゃないかと思うのです。でも、先入観で入ってくるから(これは習うほうも教えるほうも)「これはこんなものなんだ」てわからないのに納得したかのような錯覚におちいっちゃう。このわかったようながすごくやっかいな代物で、私はよく「こうやりなさい」と言ったあとにぜんぜん正反対のことを言ったりするの。子どもはとまどいますよ。でも、シチュエーションによっても美意識なんてどんどん変わっていく。それをどう判断するかは自分の感性でしかないんだということをわかってくれたらいいと思っているのです。
それが、自分の感性を磨くきっかけになってくれれば。何がきても戦っていけるような気がしているのです。だから、コミニュケーションて、とても大事で私はここのこういうところが好き、嫌いということをなるべく言葉にして話していくことがすごく大事なことなんじゃないのかなあと思っています。